far_from_fire’s diary

感情の墓場。

もっと気軽に雑記を

ということで、特筆すべきの有無に関わらず、まずは雑記(このブログ)の不定期かつ継続的な更新を目指すことにした("不定期"というのが私的継続のコツ!)。

人に影響されやすい私、例に漏れず今回のこの思いつきもそう。

何かを継続できる人、何かに打ち込める人、作品を生み出す人に憧れているわけだが、私も不精ながらそんな人間になろうと思い立ち。

副産物として、記憶の定着も密かに期待しているところ。

 

さて、今日は仕事がお休みだったけれど6時台に目覚め、しばらくゴロゴロしてから起床し、街にでた。

買い物を済ませ帰宅すると、眠気に任せて昼寝をし、起きては寝てを繰り返して外がすっかり暗くなる頃ようやく覚醒。

鍋料理をしたことがなかったが、夕飯に初めて拵えた。白菜と、白滝と、椎茸と、豚肉。

4分の1カットの白菜のほとんどを詰め込んだせいで、つみれと豆腐が入り切らなかった。カレーでもなんでも、いつも食べきれないくらい作ってしまう。

今回は白菜がしんなりしてくれたおかげで大分嵩が減ったけれど。

食生活がおざなりなのが流石に気にかかるようになってきたので、野菜を摂れた今日は大変良かったのではないでしょうか。

他にも生活を整えたくて、そのためにiPad(タブレット)がほしいのと、スマホを見る時間を減らして読書の時間を増やすのと、家事を溜め込まないようにしたいところ。

これらを一気にすると、反動である日ぷつりと全てを投げ出してしまう性分なため、程々に、手を抜く日は抜いてやっていこう。

お久しぶり

実はブログを始めた一番の大きな理由は、病んでいたからだった。

 

そしてブログが止まっていたのは生来の三日坊主な性格に加え、良い意味で日々が目まぐるしかったからだ。

 

元々落ち込みやすく涙の出やすい質ではあったが、職場の人間関係で追い詰められ、絶対に涙を流さないと決めていたのに泣いてしまったこと、朝起き上がるのが億劫になってきた事で、昨年冬、危機を感じ始めた。

 

一方この生活を死守したかった私は、誰にも言わぬまま、大丈夫、大丈夫と唱え乗りこなそうとしていたし、できるとまで思っていた、かもしれない(当時の心境をよく思い出せない。喉元過ぎればナントカである)。

 

しかし乗り越えるにも自分ひとりでは煮詰まってしまい、メンクリに助けを求めることにした。仕事を続けていくためのヒントを貰えたら、薬で己がマシになれるのならと思い。

 

医者から告げられたのは、「今すぐ休職してください」「ドクターストップです」だった。

 

口調は柔らかでも、譲る気のない意思が篭っていた。

 

粘ったが根負けし、了承した。

 

職を失う覚悟もした。入職して数ヶ月の人間が休職するなんて、職場から見放されると思った。対して役にも立たない人間は居ても居なくても一緒なのだからと。

 

あの場から距離をおけるという開放感は駅に向かう道すがらですぐに遠のき、一気に不安に包まれた。

 

なんて言おう、どうすればいいのだろう、休職なんて職場に伝えてすぐできるものなのか、と様々な考えが頭を巡った。

 

その頃は当たり前になっていた動悸が、更に激しく聞こえた気がした。

 

社会不適合者は、堕ちるしかないのだと、妙に染み入った。

 

結論、職場の人間はすぐに休職を受け入れ、職場環境を刷新し、心配し連絡をくれた人もいた。

 

優しさが辛いほどだった。

 

2ヶ月の休職期間を経て復帰したが、今思えば休職中が最も辛かった。

 

既卒入社、学歴コンプレックス、対人コンプレックス、きっと皆言わないだけで私を蔑んでいるのだろうと思い続け止まない卑下。

 

一番ショックだったのは、そんな体調の中足を運んだ、楽しみにしていた映画を楽しむどころではなかったことだ。

 

動悸が止まらず、段々と気分が悪くなり、吐き気すらした。意地で二作品観切ったが、疲れ果てたし、悲しかった。様々な悲しみを記憶から引き摺り出し、自己嫌悪をあおり、自嘲で己を慰めながら帰宅した。

 

いつもの不健康なルーティン。

 

結局職場としても早く復帰してほしかったようだし(人手不足だからね)、三ヶ月もせず復職した。

 

今の怠けきった思考下の自分からしたら、もう少し休んでおけば良かったと思わなくもないが、あの時は焦っていたし、何より母に心配をかけたくなかった。

 

気が弱いのだ、結局。

 

復職や健康を望まれたら、その通りにしなければと思うし、焦る。

 

私が復職する前に新人が三人既に働き始めていて、職場環境や対人関係への不安はあったものの、就職から一年を過ぎた今の心境としては、ああ、今が一番幸せ、ということ。

 

自分にまつわる悩みや悔しさ、葛藤、憤りは今も日々育ち、尽きないが、それは私が私である限り一生つきまとうものだと承知であること。

 

この話はまた今度。気が向いたら、整理がてら呟こう。

 

 

 

 

苦手じゃない運動

 

私はどんくさくて、運動が大の苦手だ。一方、好きか嫌いかを問われると、「嫌いではないが、体育の授業は苦痛」と返答するだろう。つまり、苦手ではあるものの、親しい人となら楽しむこともできる行為といえる。

 

そんな運動のなかで、ごく自然に取り組みやすく、割と快感を覚えるのが文章の波に乗ること。

なんだ、運動じゃないじゃないかと言われそうだが、これもまたひとつの運動だといえる。

文章を読むのにも"ライド"は伴うのだ。

 

……なんて偉そうに雑記を始めてしまったが、これは今読んでいるエッセイの受け売りで、「確かにそうだ!」と膝を打ったため衝動的に綴っているのが事実である。

 

そんな読書も久々にゆっくり楽しめている。元々多読者ではなく、買っては積み、を繰り返す性分ではあるが、ふと読みたくなって頁を繰るとどこか満たされた心地になる。余裕もないと本は読めないしね。

 

せっかくブログを開いたことだし、この本の好きな文章を並べてしめることとする。

 

"言葉は楽譜よりも余白が大きく、多くの解釈がわたしにゆだねられていた。それはまた、言葉のほうが構造が弱く、意味が言外へとそれやすく、迷子になりやすいということでもあった。"

 

"過去がまぶしいのは、それが風化する運命にあるからだ。そして思い出に胸が熱くなるのは、いくたびもの忘却をくぐりぬけ、いまもなおそこに残っていることが奇跡よりほかのなにものでもないからだ。"

 

"鼓動とは、とめどなく胸に打ち込まれる斧である。意識は、その斧の、いわば木霊として原初のゆらめきをなす。意識は肉体の蠢動との掛け合いに始まる。生きているかぎり、意識が肉体に返答しないという選択肢はない。肉体の外に出て意識をもつことが、わたしたちには許されていない。"

 

"(略)ひとがなにかに没頭するのを疎んじる勢力というのは、いつどこにでもひそんでいる。

そうした勢力に抵抗するには、ちょっとしたコツがある。それは、なに食わぬ顔を崩さないことだ。傷ついている猶予はない。まずは平然と、挫折を飼いならそう。そしてまわりの目を盗み、対策を練る。"

 

"(略)と、まもなく、頭上にふわふわと雲の浮かんでくるのが、雲の影で分かる。それげ「意味」なんだそうだ。"

 

今読んでいるところはここまで。

 

 

雑談めいたものたち

 

配信で映画を観るがスマホをいじる。本を読み始めるが別の事柄に意識が逸れたり集中して内容を理解しきらなかったりする。

 

目にしている意味があるのか不明だが、必要とはしているのかもしれない。

 

昨晩は初めてレイトショーを観て日付が変わってから帰宅した。散在もした。

 

観たのは『カラオケ行こ!』。

 

"してみたいこと"を次々叶えていくのは気持ちがいい。満足感がある。

 

今日は自炊もしたし(和え物、という選択肢が増えた。あと、ブロッコリーを好きになりそう。そんなに好きではなかったのに)、洗濯もしたし、買い出しで必需品も買い揃えたし、よい日になったのではないでしょうか。

 

眠いからもうお風呂に入って、部屋を片付けて、明日の準備もして来週の帰省を楽しみに眠りにつこうかな。

 

物欲もしっかりあり、ほどほどに元気みたいです。おやすみ。

 

繊細さと暴力 嫌悪 汚点

 

繊細さはやはり暴力だと思う。

 

繊細な私は周囲に暴力をふるいストレスを与えていることと思う。

 

私は、人に何をしてもらったかで他者を推し量る、傲慢な人間だと再び思い出した。

 

前もそう気付いたことがあったのに、都合よく忘れていた。

 

近頃は己が憎い。

 

でも、許してやりたい気もする。

 

今日(1/8)、Twitterで知り合ってから7、8年になるフォロワーとようやく初めて会った。

 

仕事ができないこと、実家(父親)のことを話した時、「構えすぎているんじゃですかねかね」と言われ、「そうかも」と感じた。

 

自分は不真面目な面もあるが、変なところで生真面目で、気にしいで、周囲の出来事を(自分からは遠い事象であっても)自分事として吸収してしまう癖がある。

 

そうした自分に気付き始めていたが、気持ちが堕ちたときは特に、あえて引き寄せてしまったりして身体の内部に貯めこんでいた。

 

今も恐らくそうで、なんだか堕ちている。

 

今日とても楽しかった分、笑った分、急にがくんと気持ちが沈んで涙まで出た。

 

優しさが辛い。情けない。恥ずかしい。苦しくなる。辛い。見たくない。気付きたくない。さぼりたい。目を背けたい。

 

様々な想念。

 

"幸福なんてウンザリ

人生を愛すべきですって?

私がここにいるのは──

"ノン"と言うため

死ぬため   "ノン"と言うため"

 

ゴダール『さらば、愛の言葉よ』にて女性が朗々と紡ぐ台詞。

 

ゴダール監督作の、ぼそぼそと朗読するような、抑揚のあまりない、ぼそぼそ声の男女のフランス語の交錯が好きだ。

 

SOFT BALLET "TRANSCODE"も同じ理由で好き。

 

"私は話す これは主体"

"私は聞く これは客体"

 

良い響き。訳した時の日本語も美しい。

 

ああまた逃避行をしたくなっている。

 

県内中心部のホテルでもとって、ちょっとした逃避でもしてみようか。

 

近場の書店や水辺なんかにも行ったりして。

 

今の私にとって落ち着く場所を見いだしながら、なんとか座礁していく、難破船のような心持でとりあえずやっていくか。

明けまして午前

 

2024年が始まった。

 

なんだか元気なのでブログを書く気になっている。

 

昨晩は、ゴダール『さらば、愛の言葉よ』の残り40分ほどから観始めたが、眠気で意識を飛ばすこと数回目で就寝した。

 

薄っすら目覚めたのは、確認していないけれど恐らく6時台で、起き上がったのは7時20分くらいだったと思う。

 

起き抜けに脳内再生されるDEEP-SETSは心地よい。

 

SNSをだらりと眺めつつ、コンビニへと向かった。目的のもののうち、ひとつは見つかり、ひとつはなかった。

 

帰宅し、『さらば、愛の言葉よ』の続きから観る。もう一本観たくなって久々に最近の邦画を観た(ここ暫くは最近の邦画の気分ではなかった)。

 

選んだのは『ほつれる』。(私の中で、ザ・最近の邦画な)ストーリーと、そうした映画に出演しがちな(イメージの)門脇麦ちゃんが決め手で。

 

なんだろう。門脇麦ちゃん好きなんだよなあ。

 

そしてこういう系統の邦画、たまに観たくなる。

 

自分とは生活水準も、交わる人間も、人生の過ごし方も違う、羨望すら感じさせる世界なのに。

 

共感を覚えたり、特別『観てよかった』となったりしないながらも、観て後悔することもないし。

 

『あの子は貴族』『花束みたいな恋をした』は私の中で同系統でまとまっていて、まだ観る気はおきないけれど、『愛がなんだ』とかも同じグループだろうなあ、と考えたりなど。

 

 

日付が変わる前、ゴダールのひとつ前に観たのはタル・ベーラの『ファミリー・ネスト』で、我ながら差がすごいラインナップだ。

 

『ファミリー・ネスト』はだいぶきつかった。

 

映し出される家族の不和や、彼らやその周囲の貧困状態、ままならなさ、やるせなさ、葛藤も勿論だが、個人的には妻の友人に起きた出来事に最もショックを受けた。

 

カメラが映す光景は、ドキュメンタリータッチではあるが作られたもので、けれど決して嘘ではないだろう。ブダペストの現実だ。

 

家がない、見つからない、あってもいつ追い出されるかわからない、あるが安心して住み続けられない。薄給で、女が男を立てる必要があって、刃向かうと生意気だと見なされ、嫁いだ先では家族の一員とみなされない。

 

それぞれの苦悩が垣間見えるが、それぞれのいやらしさも映し出されていて、閉塞感に包まれた1時間45分だった。

 

この作品を当時22歳のタル・ベーラが発表したというのだから、それにまた打ちのめされる。

 

私はただ画面の向こうに広がる光景を茫然と見つめるのみだが、タル・ベーラはその後も撮り続けている。

 

それにしても、『ファミリー・ネスト』は『サタンタンゴ』よりも観やすいが、タル・ベーラ作品という時点で人に勧められない作品である……。

 

一番は『ニーチェの馬』が観たいのだが、アマプラではレンタルすら今はされていない。

 

今年の2月にタル・ベーラ作品が劇場で上映されるらしいから、その時期にはまた配信が始まるかな。

 

 

そうそう、ようやく本棚も購入したのだ。重い腰がそろそろと上がり始めた。

 

壁まで伸びる本棚が、ようやく新居に設置されそう。

 

消費ばかりも気持ち悪いが、本当にほしいものを買い集めることは心を満たす一種の方法でもあり、無駄遣いでなければまあ良いよね、なんて自分を甘やかす。

 

 

およそ年末年始らしい過ごし方ではないが、とても落ち着く、満たされた時間が流れている。

今年のうちにもうひとつ更新

 

年内にもうひとブログ更新する。

 

どうやら私は"更新"という行為が好ましい生き物らしい。もしくは"克服"といえる行為か。

そう、定期的に己をアップデートして気持ちよくなる節がある。思い返せば子どもの頃から。

 

小学生からいくつか習い事をしていたが、そのうちのふたつ、水泳と学習塾は自ら通いたいと親に申し出たものだった。

 

水泳を習いたかったのは、小学校3年生か4年生になっても泳げなかったから。泳げるようになりたいと思っていた。

 

学習塾は、中学受験をする友人に通っている塾の入会を勧められ、その子と通えるなら、そして塾なら親も喜んでくれるだろうとの思いから頼み込んだ。

 

結果、友人とは違う近所の塾に入ることになったが、なんだかんだ数年続けた。

 

高校に入る前、中学時代に随分拗らせた私は、それでもそんな己から脱却したくて放送部入部を決めた。

 

他者とのコミュニケーション、不得手な会話を改善したかったからだ。

 

大学時代は、書籍/書店/知識/知的な行為に魅了され、毎月バイト代のほとんどを書籍代に費やした。

 

知的な行為により己の意識や習慣、行動を変えたかったからだ。

 

そして今。自分改革は俄然真っ最中だが、最近は英語を学びたい欲が生まれている。

 

仕事で、日本語でやり取りが難しい方と接する際、「こういう時話せたらな」と思ったり、単純に英語を話せるとかっこよかったり、学生時代結局最後まで英語をしっかり学ばなかった後悔なんかもあったりする。

 

けれど一番の理由は、更新を楽しみにしているユーチューバーさん(と呼んでいいのか……?)が英語を勉強しているからである。

 

その方の部屋も、語り口も、興味関心も、選ぶものも、経験してきたことも好ましく映るため、追いたくなっているのかもしれない。

 

ご本人にとっては気味の悪い視聴者かもしれないな。

 

年始は、英語のテキストを買うかもしれない。そして仕事終わりに最寄のカフェで勉強したりなんかするかもしれない……と夢想する12月31日の夜である。